気がつかれなかった薬

気がつかれなかった薬

「あえいうえおあお。気合だー!」声を出し、力こぶを出してみるが、どんなに強がってみてもスタンドミラーに写る顔は疲れきっている。青白く顔を出し始めたヒゲ達がずいぶんと自己主張しやがる。明日の朝にはまたブラウンで刈り取られる運命なのに。
疲れきっているのも、毎日満員の終電帰りじゃ仕方がない。眠らない街「TOKYO」を実感させられる。寝る子は育つというが、寝ない街「TOKYO」は育っているんだろうか。古い町並みは消え去り、新しいビルが次々と生えてくる。でも、そんなものはブラウンで刈り取られるヒゲみたいなもんじゃないか。女の胸だってそうだ。シリコン入れて底上げしたって、成長したことにはならないだろう。中身なんだよ、中身。オレは、この世界が知恵や徳を身につけ成長しているのかって、言いたいんだ。みんなウソと虚構だけじゃないか。
テーブルに置いてあったグラスの牛乳を飲み干すと、またスタンドミラーに向かって言った。「オレはどうしようとしているんだ?」
「もう決まっているんだろう?」空耳じゃない、はっきり聞こえた男性の声にオレは動転した。心臓の鼓動と血圧が一気に高まった。後ろを振り返った。部屋中を見回した。たしか、ドアの鍵はかけたはず。窓も閉まってる。
「だれだ?」「おまえだよ。」信じられないが、声はスタンドミラーの中からだった。鏡のはずなのに、そこに映っているのは、たぶん、オレだった。背格好と目元は自分だが、オールバックにしたヘアスタイルと、たっぷり蓄えたあごヒゲはシルバーグレーだったからだ。決まりすぎのフォーマルウェアに身を包んだそのオレは、映画のパーティーから飛び出してきたような超VIPだった。
「お前は、つまりオレだが、明日、メールで辞表を提出した。『人類に真の成長を促したい』、今から3時間後、そう決心したからだ。その時の気持ちは良く覚えているよ。そう決心したとたん、気持ちが楽になった。それからは、お前の考えに共感してくれる協力者がいっぱい出てきたよ。宇宙旅行会社も作った。タイムトラベルも可能にした。鏡から鏡へ飛び移るのだ。
テレパシーで交信できるカプセル薬は、ノーベル賞を取ったんだ。目、耳、口が不自由な人、赤ちゃん、老人、外国人、恋人同士、本当に多くの人が持つ夢を実現したからだ。でも、たった200年後の今、世界は破滅寸前だ。人が死ない薬を作ったから、食料が足りないんだ。あの薬は作るべきじゃなかった。」
変な話だが、オレには共感できた。もやもやと心の中で理想として考えていたことが、将来実現したんだということが分かったからだ。
「オレを止めるには今日しかない。」アーミーナイフを取り出しながらスタンドミラーから飛び出してきたオレは、オレののどをかき切り、左胸を突き刺した。
生暖かい血しぶきがミラーと部屋の壁に飛び散る。薄れゆく意識の中で、もう一度、シルバーグレーのオレの顔を思い出した。「オレ、かっこよかったなあ。」

「自殺です。争った後もないし、完全に密室、ナイフの指紋も本人のものですし。ガイシャ、精神的に不安だったようだとの証言もあります。カプセル薬が散らばってますが、精神安定剤でしょうかね。」

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作者コメント

2005年12月、文章塾パート2での作品。

最後に散らばっていた薬は、ノーベル賞をとったテレパシーで交信できる薬かもしれませんね。でもきっと気づかれずに捨てられてしまうんだろうなあ。

秘伝文章塾