グッバイ・マイ・ラブ

グッバイ・マイ・ラブ

「ケンジ、レイラは演るなっていっただろ・・・ぅ」
オレが店に戻ると長らく封印していたはずのバラードが流れていた。オレがこのダイニングバーを始めて5年が経った。ケンジと一緒にニューヨークに来て、二人で始めた店だ。
ケンジがギターを弾く手を止めた。一瞬、客が戸惑ったが、すぐに話し始めた。
「こちらのお客様のリクエストです。」ケンジが目を送った先に、二人掛けの丸テーブルを囲んで、アジア系の男を連れた杏がいた。
仕入れてきたばかりのフルーツをつめた紙袋が、手から滑り落ちる。杏は、男に何かささやき、足元に転がったリンゴを拾ってオレの元まで来た。
「久しぶりね。テレビで見たのよ。相変わらず、ケンジのブルースは染みるわね。」
「君もニューヨークにいたのか。」

札幌のライブハウスでは、ケンジがギター、オレはドラムを演っていた。辞めたキーボードのサリーの後任を探していたとき、出会ったのが杏だった。
杏が入ってからのセッションは熱かった。鍵盤の上を走る彼女の指先をいつも見ていた。ライブが終わったあとは、オレの胸をなぞり、背中を掴んだ。
それと同時に、メジャーデビューのオーディションも順調に勝ち上がっていた。しかし、最終オーディションの朝、杏が消えた。それを機にバンドは解散し、オレとケンジはニューヨークへ来た。

「どうして今頃。」
「助けて欲しい。」リンゴをオレに手渡しながら、耳元に言葉を残した。「店が終わってから事務所で聞こう。」フルーツを拾いキッチンに戻った。

「一人で来たのか。」ボルドーを抜いた。グラスに注ぎ、彼女に手渡す。「そんな時間はないわ。」デスクにボトルを戻し、立ったまま彼女を見つめる。
「父は中東のある国との2重スパイだったの。オーディションの前夜、父は狙撃されたわ。私たちも命が危なかったので、どうしても身を隠す必要があったの。わかって。お願い。」彼女はグラスを両手で支えたまま、話を続けた。
「彼も同じく、その国のスパイなの。ガーディンは米国企業に盗まれた特許技術を取り返しに来ただけよ。ただ、情報を掴まれていて出国できないのよ。あなたに強力なコネがあることは知っているわ。お願い。私たちを出国させて。」頬を伝った一滴で彼女のグラスに波紋が広がる。
「再会に乾杯」オレはいっきにグラスを空けた。「帰ってくれ。」

「ケンジ、店を閉めようと思う。店の譲渡収入は山分けだ。ただし、ピアノはオレにくれないか。よし、そうときたら今日が最後の営業だ。盛り上げようぜ。」
オレは店のドアを開け、最後の営業であることを告げて、最初の客たちを招きいれる。しばらくすると、また、杏が現れた。

杏、大事な知らせがある、今日で店を閉めるよ。オレか?日本へ帰る。ピアノも一緒に。あした運送屋がやってくる。ピアノは大きな木箱に入れて運ぶそうだ。グランドピアノだからなあ。きっと足元に隙間があることだろうよ。同じ船に乗るチケットを取ったんだ。オレは先に出るから、ピアノを見送ってくれないか。おっと、確認のために、最後に一度カバーを外して弾いてくれ。

その夜のうちにオレはニューヨークを出た。次はマイアミあたりにでも行くとするか。

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作者コメント

2003年12月の作品。

往年の名作「カサブランカ」をモチーフにした作品。カサブランカをモチーフにした映画で「バーブ・ワイヤー」という作品があるが、確か、それを見た後に自分も触発されて書き始めたはず。
彼はピアノの木箱に隠れて船に乗り込み、彼女の方はカバー下に隠されている船のチケットで乗船するという筋書き。主人公はバスにでも乗ってマイアミへ向かうことでしょう。

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