敏彦

敏彦

私は逆さまに宙吊りになって海岸を眺めていた。岩だらけの海岸に波があたっては白い泡となって消えた。沖には白い帆を立てたヨットが無数に漂っている。今日は北海道の6月らしい雲ひとつない快晴だ。心地よい春風が火照った頬に気持ちよかった。草の香りと潮の香りが混じっていた。

しかし、私の心の中は悔しさと絶望感でいっぱいだった。体中の筋肉という筋肉に乳酸が満ち、冷たくごつごつとした岩壁の突起を掴んで自分の体を支えることができなくなったからだ。私は地球の重力に負けた。いや、自分自身に負けたのかもしれない。とにかく自分は負けることを選んだのだ。だから、今、自分が逆さまに宙吊りになっているのは、死んだも同然のことだった。30メートル下の岩盤に頭から落下すれば、ヘルメットもろとも頭蓋骨は砕け散り、全身の骨という骨が粉砕されていたことだろう。
自分が死なずに今もこうして生きていられるのは、この岩壁の上で待っている敏彦に一本のザイルを通して命を預けたからだ。クライマー同士の友情は厚くて熱い。お互いに一本のザイルを通して命を預けあい、呼吸を感じ取り、勇気を与え合う。友人という関係を超えた兄弟のようなものだった。私たちは難易度の高い危険な岩壁にこそ、心の中で満ち溢れている冒険心が刺激された。

敏彦は職場の先輩だった。敏彦は入社ばかりの自分に、積極的に声をかけてくれた。「クライミングやってみないか?冒険好きだろ?」
先輩といっても自分の父親より年齢は高かった。髪も口髭も白髪が混じっていた。顔には深い皺が刻まれていた。自分には敏彦の強い男性らしさと信念がメラメラと眩いオーラとして見えた。ヒマラヤの秀峰を制覇したこともあるらしい。自分は敏彦の魅力にどんどん引かれていった。そして一緒にクライミングに出かけて行っては友人としての絆をザイルを通して感じ合っていた。

クライマー仲間の中には「クライミング中に死ねるならそれも本望だ」という者もいた。でも敏彦は違った。「クライミング中に死んでも本望だ、なんて言うのはうそだ。生きなきゃだめなんだ。絶対に!」本気で、すごい剣幕で怒っていた。後から聞いたが、まだ敏彦が若かったころ親友が一人でクライミングに出かけ、そして落下し、帰らぬ人となったのだと。

敏彦は平社員でいいと開き直っていた。出世しても自分の冒険人生には何のプラスにもならないからだ。
自分は冒険の楽しさを知った。しかし、平日はしがない平社員でいて週末だけ冒険に出かけるくらいなら、自分の人生そのもので冒険をしてみたくなった。そのための第一歩が出世だった。本社の経営中枢部門に引き抜かれるよう、仕事の虫となり、出世の道を歩みだした。
敏彦は「俺みたいなダメ平社員と付き合っていたら出世なんてできないぞ。中途半端はするな。それがお前の冒険ならとことん突き詰めてみろ。」といって、自分との付き合いを避けるようになった。


あれから10年がたち、自分は自分の望みどおり、本社の経営中枢部門で重職を任されるようになった。この10年、本当に人生の冒険だった。きっとこれからもこの大冒険は続く。
そして、敏彦が定年退職した、と風のうわさに聞いた。祝電を打ったが連絡はない。でも、いまだに自分の中で敏彦は最高の師匠であり、友人であることに違いはない。

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作者コメント

2003年3月の作品。文章塾初参加の作品で、ほぼ無我夢中で書いたもの。

冒頭の風景描写がとても気に入っている。海と空の青さ、白くはじける波、岸壁の無骨さや冷たさ、新緑の香り、潮の香り。五感に働きかける要素をたっぷりとにじませてあるので、そんな心地よさを感じてもらえたら本望です。

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